自由な働き方がもたらす不自由

自由な働き方

昨今、働き方改革から派生する形で「自由な働き方」が注目されているように感じる。

「自由な働き方とは何?」と思う人もいるかもしれない。

例としては様々なものが挙げられるが、分かりやすい例を出すならフリーランスが挙げられる。

 

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メディアでもこのようなフリーランスとして働く人々をテーマにした記事が増えたように思う。

このような流れは、ある種のモラトリアムや現実逃避によって生まれた一過性のもののように感じる。

一方で、自分の意思や裁量で自由に働けるということの素晴らしさを否定するつもりはない。

起きている時間の多くを費やす労働が苦しいものであるよりは、どう考えても楽しいものである方が好ましいだろう。

だから自由な働き方というものの素晴らしさまで否定したいとは思えないのである。





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フリーランス(個人事業主)は自由だけど自由がない


自由な働き方がもてはやされる一方で、自由な働き方がもたらす不自由についてはあまり語られないように思う。

自由な働き方がもたらす不自由とは何か?

たとえば仕事に関わるあらゆる作業を自分で管理しなければならない業務負担の増加が挙げられるだろう。

あるいは顧客との間で何かトラブルが生じた際に発生する責任をすべて自分で追う責任範囲の拡大も挙げられる。

読者がもしも自由な働き方をしているのであれば、これ以外にも多くの不自由が思い浮かぶことだと思う。

そういった中で、今回私が取り上げる不自由は「休暇」である。

 

冒頭、自由な働き方の例としてフリーランスを挙げた。

フリーランスはつまるところ個人事業主である。

どれだけ恰好つけたところで、恐らくこの事実は揺るがないだろう。

つまり、主に自分一人で仕事をするような働き方である。

昨今は複数人で徒党を組んで仕事をするケースもあるようだが、それだって結局は個人事業主が集まっているに過ぎない。

個人事業主である事には何ら変わりはない。

さて、この個人事業主という働き方だが、とにかく自由である。

私自身かれこれ3年以上この働き方をしているが、一般的な会社員と比較して働き方の自由度は別次元といっても良い。

 

何時に起きようが自由。

何時間働こうが自由。

どこで働こうが自由。

おまけにいつ休んでも問題ないときている。

最高である。

 

読者の中には「うらやましい」と感じる人もいるかもしれない。

ところが、現実は言葉ほど自由度はない。

何故ならば、仕事しなければ一円も手元に入ってこないのである。

つまり、働かなければ飯が食えない。

「何を当たり前の話をしているのだ?」

そう思うだろう。

私だってそう思う。

ただ一つ言わせてもらえるならば、「頭の中で思い描くのと、現実は思った以上に差がある」ということだ。

何が言いたいか?

働かなければ飯が食えないという現実は、想像と体感では雲泥の差なのである。

先ほど、個人事業主の働き方は会社員と比べて別次元の自由度だと伝えた。

 

何時に起きようが自由。

何時間働こうが自由。

どこで働こうが自由。

おまけにいつ休んでも問題ないときている。

 

これが「働かなければ飯が食えない」という要素が加わるだけで、次のように変わるのである。

 

早く起きて働く時間を確保しなければ飯が食えない。

何時間も働かなければ飯が食えない。

どこかに行く時間が増えると飯が食えない。

少しでも休めば飯が食えない。

 

地獄である。

もちろん仕事にはよるし、稼ぎ方によって大きく変わってくる。

しかしながら、多くの個人事業主にとって「働いていない時間=損失」という方程式は絶対になるのだ。

それでも私はライターだからまだマシな方である。

時間・場所の自由度が高く、幸い仕事が次から次へと来るのでこなせば金になる。

一方、飲食店や小売店のような店を持つ場合は、更に逼迫した状況に迫られることになる。

何せ、時間も場所も制約され、来客という不確定要素に振り回されるのだ。

稼ぎたくても稼げないジレンマ。

稼がなければ飯が食えないストレス。

これらと向き合わなければならない。

このように、「自由な働き方」は思った以上に苦痛に溢れている。

 

そしてその最たるものが「休暇」なのだ。

個人事業主は驚くほど休めない。

いつ休んでも良い筈なのに、いつも休めない。

私はここ数ヶ月、定期的にとあるバーに通い、マスターと仕事の話をしている。

そのとき議題に上がるのが「休めない」という問題についてである。

たとえばそのバーには定休日がある。

昔は休まなかったそうだ。

しかし結局休むことにした。

理由は簡単だ。

休まなければ仕事を続けるのが厳しかったからである。

人間の体は、誰もが想像するより頑丈ではない。

そういうことだ。

休まないことが、巡り巡って大きな損失を生み出すのである。

マスターは、そのことに気付いて、あるときから定休日をしっかり取ることにしたそうだ。

「週に1回は休まないと駄目ですよ」

その言葉には確かな重みを感じたものである。

とはいえ、そんなマスターは結局のところ休めていないのが現実だ。

「結局休みの日といっても、やることは多いんですよね」

個人事業主も経営者。

店の営業だけが仕事ではない。

だからたとえ1日休日を作ったところで、完全には休めないのである。

 

では私はどうか?

私も何や彼や言って休めていない。

常に仕事に追われている。

理由は簡単だ。

 

休むことで収入が減る。

これが不安で仕方ないからである。

おかげで何かに強迫されるように働き続けている。

個人的な事情で実働時間こそ多くないが、それでも丸一日休む日など、一ヶ月に一日あるかないかである。

休まない自慢をしてるのではない。

単純に休めないのだ。

休むことが怖くて怖くて仕方ない。

時間=金なのだ。

休む時間=損失でしかない。

自由なのに不自由な生活になっていると思わずにいられない。

 

だからマスターとは常に「どのように休むか」「休みを得るためにどうすべきか」を議論し続けている。

残念ながらその答えはまだ出ていない。

 

「自由な働き方」は大いに結構である。

しかし、「自由を得たがために不自由になる」そんな現実があることを、私たちは今一度考える必要があるのではないか?

昨今いたずらに「自由な働き方」がもてはやされるを横目に、いつもそう感じずにいられない。


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